カプティウス:呼び起こされるつらい記憶
安西くんの一人芝居が、無事千秋楽を迎えました。ファンイベントの代わりにこんな重いの持ってくるか???さすが思い悩み葛藤系俳優ですわ。カジュアルに語りたいところですが、さすがに筆が重いです。
- あらすじ
- 御託並べ
- 役と演者の混濁
- 舞台に「立ち向かう」感覚
- 芋づる式に引きずり出される記憶
- メッセージはなく、思考させることが目的か
- 空っぽな器に満たすのは、自分の記憶だったのか
- 推しの一人芝居は最高です
あらすじ
太宰治の「人間失格」を底本とする本作。
底本は、自分の人生経験が人間とは到底言えないと考えている男の三つの手記で構成されている。この物語の主人公はそんな文学を読んだ一人の男。
もとより考える性質だったのか、その本を読んだ彼は、深い思惟に入る。
その様はさながら哲学者なのかもしれぬが、専門家でもない彼がそうすることに意味があるかは分からない。彼は何処へ向かいたいのだろうか。
夢と現実とに囚われた男は今日も考え続ける。
最後には決まって同じ文句で結ぶのに。
こちらの説明のとおり、舞台上にいる一人の「男」が「人間失格」という本を読んだ感想…というか疑問を語り、それについて自分の人生を絡めてひたすら人間とは何か、人間失格とは何か、常識とは何か、生きるとは何かをグルグル考えるお話。
あらすじのとおり、「男」の話す内容に何か意味があるわけではなく、自我さえ確立していない「男」-つまり空っぽな「男」が言葉を尽くして何を論じても空っぽでしかなく、その空虚さ滑稽さ自体が見るべきものだったのかなぁと思います。
以下いつものごとく適当に思ったことなど。
御託並べ
開幕直後、男はバースツールについて語り、言語学者の試みについて語り、「人間失格」という本について語ります。
彼の語り口はプライドの高さ、神経質さ、保身、予防線にまみれていて、開始早々に「御託ばっかり並べやがって…」と思いました。
そこで、この舞台の主題歌がまさに『御託並べ』だったことを思い出します。
舞台上には「男」一人、彼が御託を並べることを止める者はいない。客席にいる私たちはただの目撃者であり、聴衆でしかなく、どんなに苦痛に感じても彼の話を聞き続けるしかないのです。
役と演者の混濁
「男」はひとしきり「人間失格」という話ーーというよりは、主人公が「人間失格だ」と断じられることーーについての不満をぶちまけると、自分の半生を語りだします。
都会でも田舎でもない町に生まれ、きょうだいがおり、野球に熱中していたがケガをして辞めてグレて反抗期に母親につらくあたり…この辺で「アレ、これ安西くんのエピソードでは…?」と感じるのですが、この後に女性が聞くと気分の良くないエピソードや父親への復讐などが語られ、「これは男の話?安西くんの話?」と混乱しました。
たぶん単に、男の存在をよりリアルにするというのと安西くんのファンイベ兼ねた舞台だからという程度の理由だと思うのですが、個人的にはこの仕掛けは入れないで欲しかった。
混乱して舞台に集中できなかったのと、舞台の中に「期待と裏切り」というテーマも内包されていたので、「あなたたちが応援している安西という男はこういう人生を送ってきたのかもしれないよ」と揺さぶられたようにも感じられたからです。
舞台に「立ち向かう」感覚
一人芝居、囲み舞台、さらに独白形式ということで、さながら独演会の様相を呈していた本作。会場に入った瞬間に「退路断ってんなぁ~」と思ったくらいで、初日は「見届けよう、受け止めよう」という気持ちで観劇したのですが、その結果、「男」に気圧されて終わってしまいました。
それで次は、「立ち向かってやる」という気持ちで入って、「男」の語ることひとつひとつにツッコみながら見てみてやっと、この舞台を楽しめた気がします。
この経験を通じて、過去に観てピンと来なかったいくつかの舞台が、こういう気持ちで観ればまた違ったのかな~と思い出されました。
芋づる式に引きずり出される記憶
そして、「男」がグルグルと思考するさまを眺めながら、不思議と途中から自分自身の人生の記憶が呼び起こされました。
まったく同じ経験をしたとかいうわけではなくて、「白いシャツ」とか「アルバイト」とか「傷つけてしまった」などのキーワードが呼び水となって、全然関係ないはずの自分の人生で悲しかったこととかつらかったこと、忘れてしまいたいことが思い出されたのです。
初日はこれはノイズだと思ってすぐに蓋をしたのですが、後述するようにこの舞台は何かメッセージを伝えたいわけではなく、観客に体験させたいのではないかと思い、次は記憶が思い出されるままにしてみました。すると、自分でも(多分意識的に)忘れ去っていたような記憶が芋づる式にどんどん引きずり出されてきたのです。
自分のいない教室で友達に「あの子はどうせ〇〇ちゃんと同じ意見でしょ」と言われていたこと、
父親が時々菓子折りを貰ってきていたのはパチンコ帰りだったのだと気づいたこと、
祖母が自分の家族に冷たかったのは血が繋がっていなかったからだと納得したこと、
ふとした瞬間にアルバイトの現場で自分が浮いていると気づいたこと、
テスト前だけやたらと仲良くしてきた友達は私を家庭教師替わりにしていたこと、
親戚の集まりでご飯を食べすぎて両親に恥をかかせてしまったこと。
舞台の上でリアルタイムに無自覚に恥を晒し続ける「男」を眺めながら、自分の内面にあった思い出したくないことが引きずり出されていく。なかなかない体験ですが、気持ちのよいものではありませんでした。
メッセージはなく、思考させることが目的か
終盤、「男」の語りはエスカレートし、それまでずっと語ってきた思想とも矛盾するような演説を始め、すべてを終わらせます。生きましょうと言いながら、自身は死を選ぶ。結局のところ、「男」の語っていた内容にメッセージなどひとつもなく、観客に「男」への同調あるいは拒否の思考をさせること自体が目的だったのではないかなぁと思いました。
個人的な好みを言うと、明確にメッセージのある舞台の方が自分は好きだなぁ。
空っぽな器に満たすのは、自分の記憶だったのか
最後の演説の中で「男」は、自分のことを「何もない空っぽの器のようなもの、そんな私という概念だけを持って、生きていきます」と話して死にます。
「男」の語りを聞きながらずっと引っかかっていたのはまさにそこで、悪い友達や彼女の言葉をすぐに真に受けてしまうほど「自分」がない「男」が、自我のない「男」が、熱く何かを批判したり語ったりすることの空虚さなのです。
空っぽの器だけがずっと舞台上に用意されていて、だから私は自分の記憶をそこに注いでしまったのかなぁ。
推しの一人芝居は最高です
というわけで、舞台そのものは好みでなかったというのと、自分に対する作用がつらい記憶を呼び戻すものだったので、普段どおり「安西くんを観たから明日も頑張れるぜ!」という気分ではないのですが…
推しの一人芝居は最高ですぞ!!!!
ずーーーーーーーっと推ししかいない。推ししか見えない。推しの声しか聞こえない。推しが全て。なんという贅沢空間。
ただ、これは推し一人がいれば成立するものではなく、脚本・演出・照明・音響・運営etc...たくさんの協力が得られたからこそで、俳優がやりたいと思っただけでできることではないというのも痛感しました。
それだけに、今回安西くんがやろうと思ったタイミングで実現したこと、本当に良かったなぁと思いますし、当たって観に行けて良かったし、のべ1000席ほどが埋まったことも嬉しかった。
安西くんはじめ制作側にとっても、観に行くオタク側にとっても大きな挑戦でした。お疲れ様でした。