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ゆく年く・る年冬の陣:死にざまから生きざまへ、価値観の変遷

1/13無事閉幕し、私の推しごと納め・始めでもありました「る年祭」について、大変今更ながら更新します。ネタバレ一切気にしてません。

 

 

 

あらすじ

 関ケ原の戦いから10年。かつての栄光にすがる豊臣と、徳川家康の対立は続いていた。
家康から白羽の矢が立てられたのは仙台藩片倉重長は、伊達政宗から任務を課せられる。


「今日からお前は“根津甚八”だ」。


真田十勇士、最後の一人は片倉重長だった!?
迫りくる大坂の陣政宗の左眼が、重長に見せた景色とは―

 るひまさんの時代劇は何かしらぶっとび設定を入れてきますが、今回は「仙台藩片倉重長が敵方真田十勇士に潜入していた」というものでした。坂上田村麻呂エスパーだったり、織田信長が宇宙人だったことを思えば大人しめの設定ですね。

本作の特徴は、大阪夏の陣・冬の陣という徳川VS豊臣の戦いが舞台にも関わらず、徳川方とはいえ第三者に近い仙台藩伊達政宗片倉重長を主人公に据え、戦国時代の終わりを客観的に表現したこと。一番のテーマは「価値観の変遷」を浮き上がらせることだったのだと思います。

 

価値観の変遷:死にざまから生きざまへ

初めて本作を観終えたとき、「なんかモヤモヤする!」と思ったんです。晴れやかに終わったけれども、勧善懲悪でなければ盛者必衰でもなく*1、豊臣が滅ぶべくして滅び、政宗が天下を目指すも世の流れを変えられない様子をただ見ているしかないんですよね。

で、観ながら感じたことをつなぎあわせて、戦国時代の終わりとともに、人が人を評価するものさしが「死にざま」から「生きざま」に移っていくのが描かれていたのだと今は考えています。だから、数々のトンデモ行動による「生きざま」で評される伊達政宗の対比が夏の陣での「死にざま」で語られる真田幸村だったのかなぁと。

 

片倉重長の変化

推しくん演じる片倉重長は、この時代にそぐわない現代っ子として描かれています。そんな新しい価値観の象徴を通して戦国時代を観るとどう感じるのか?という役割。

若さゆえの潔癖というか反骨心に満ち溢れ、尾崎豊の曲にシンパシーを感じる多感な若者そのもの。

・「片倉家の嫡男」としてではなく、「片倉重長」個人として自分をみてほしい。

・「片倉家だから伊達家に仕える」のではなく、政宗に仕える明確な理由を持ちたい。

・主君(政宗)には、戦国武将なんだから天下を狙うような野心を持っていてほしい。

こんなようなモヤモヤを抱える重長は、政宗が不甲斐無いから伊達家に仕えるのをやめてやる!というところから始まりますが、最後には政宗を尊敬し納得して仕え、意図せずして政宗を古い価値観の呪縛から解き放つまでになるのです。

個人的には重長は、その過程において成長したというよりは、ただただものを知らなかったんだと思っています。

真田十勇士に潜入することで真田幸村を代表とする武士のありかた(主君のために死ねるか)を知り、

伊達政宗による真田幸村の勧誘を見て主君・政宗の心のうちを知り、

真田幸村伊達政宗は理想が違うから手を組むことができないのだ、人によって正解が違うのだということを知り、それでも理解はしあえるのだと知り…。

そして重長は、自分の頭で考えて、手を組んでくれなくてもいいから一緒に帰ろうという結論に至ります。武士としては殺し合うしかないはずの互いの立場を無視した、片倉重長個人から真田幸村個人への願い。だからこそ強い覚悟で殉死に向かう幸村の心を揺らします。結果、その望みは叶わなかったわけですが…。

その経験を経て最後、重長は政宗に、勉強するために京や大阪へ行きたいと語るんですよね。このね…自分は何も知らないと気付いて勉強するぞって落ち着くの、素直で健全でいいなぁ。

 

伊達政宗の理想

本作の政宗の信条は「図太く長生き」。みっともなくても生き延びて、死んでいった人たちの分まで明るく楽しく生きてやる!という、これまた現代的な感覚の領主です。

政宗と幸村は打倒徳川という意味では仲間になりえましたが、犠牲を払ってでも悲願を達成すべきという幸村と、無駄な血は流したくない政宗なので、交渉は決裂します。

そんな政宗の目指す世は、身分の高低や貧富の差を無くしたリベラルな世の中。その具現化が、重長だったのかなと思います。一人の若者が、自分の立場に縛られることなく自分の頭で自分の行く末を考え行動することができる世の中。

政宗の目には、死んだ亡霊が映ります。それはおそらく、彼らの死にざまが政宗の心にこびりついているから。死んでいった人たちの分も自分が背負わなければ、彼らが浮かばれないと思っているから。

結果的に、自分のマインドのもとで自由に育てた重長の「亡霊なんか見えるわけないでしょ」という一言で、亡霊(=政宗がこれまで背負ってきた死にざま)を吹き飛ばしてもらえるわけで。自分の理想を具現化したら自分が救われるんだから、この上なく理想的ですよね。

また個人的には、エキセントリックに描かれることの多い伊達政宗*2を、それは単なる一面できちんと理想と野心を持った人物として描いてもらえて嬉しかったです。

 

真田幸村という宗教

本作は主に徳川VS豊臣、一歩引いて伊達という構図なのですが、真田家は兄・信之は徳川方で家臣として仕え、弟・幸村は豊臣方として九度山に幽閉されています。

徳川家にとっては、幽閉しているとはいえいつ蜂起するか分からない厄介な存在。

豊臣家にとっては武力があって信頼のおける最後の砦。

伊達家にとっては天下を掠め取るために手を組みたい相手。

各陣営から注目を集める幸村がいかに大きな存在であったかが伺えますが、当の幸村と十勇士たちは、「ラブ&ピース」「スローなライフ」をうたい、九度山で農作業に明け暮れ、自然に感謝し、ちょいちょい会合を行うなど、明言は避けますがどう考えても某カルト村をモデルにしています。

前述のとおり家柄や武士道に縛られない新しい価値観を持った重長にとって、武士道に殉じようとする幸村たちははじめ「理解できない」対象であり、本作は「重長から見た」戦国時代なので、一般人からすると理解できないカルト宗教になぞらえたのだと理解しています。

たしかに事前情報で幸村を「村長」って言ってたけど!!そっちか!!2.5次元やマリウスいじりとは一線を画すスレスレぶりだよ!?!?

 

宗教戦争

2幕構成になっており、1幕最後は演者全員で大阪冬の陣の開戦を歌います。このとき、豊臣家は豊臣家再興のため、真田幸村たちは打倒徳川という豊臣秀吉の悲願を達成するため、徳川家は豊臣家を滅ぼすためというこの戦のそれぞれの理由を述べるのですが、最後にはユニゾンで「正義の名において」と歌い上げます。

戦争とは善と悪ではなくそれぞれが自分を正義だと考えて戦っているのだと、勧善懲悪の対比としてよくある構図ではあるのですが、それまでバラバラに歌っていた各陣営が最後には「正義の名において」ひとつに集約されることにゾッとしました。

前述のとおり今回九度山がカルト村的に描かれていたので、初見で「宗教戦争だ…」と思いました。これで25分休憩って、どんな気持ちで過ごせばいいの?って感じ。*3

 

秀頼と重成:主従であり兄弟

今作は対比関係や多重構造が多くみられましたが、ここの関係にも触れておきたいです。政宗と重長という上司部下、信之と幸村という兄弟との対比である彼ら。

秀頼は天下なんてどうでもいい、自分と母上が無事ならば…という志の低さで、重成に天下を取れますよと唆されてようやくやる気を出すも、実態は重成の言いなり。あまつさえ「兄だと思ってた」とすら打ち明け、上司と部下の形などあったもんじゃありません。

そんな秀頼に重成は吐き出します。「お前がもっとちゃんとしていれば、命がけで仕えてやったのに!!」

反発していた重長が政宗を尊敬する変化を思うと、悲しすぎる対比。

それでも、秀頼を心から打算なく助けたのは重成だけでした。

秀頼の命が危ない場面、幸村が遣わした小助は「豊臣家滅亡を防ぐため」秀頼を守り、伊達政宗は「徳川が勝っては困るから」秀頼を守りましたが、最後には豊臣家滅亡を悲願に行動してきたはずの重成が、身を投げ出して秀頼を守ります。

それはきっと、弟のように慕ってくれた秀頼個人との関係を捨て去れなかったから。

これに対して、血のつながった兄弟である信之は覚悟をもって幸村を斬るんですよね…。

 

家対家から人対人の関係へ

序盤、仙台藩を抜けたいと啖呵をきる重長は、「俺は人として生きたいだけなんだ」と言います。その意味はきっと、身分や立場を取っ払っていち個人として生きたいということ。

そして、九度山に潜入した重長は、潜入レポ初回でこう記します。

「農業は楽しい。そして、人は優しい。人に優しくされるのがこんなに嬉しいのだと、初めて知りました」

重長は間違いなくこれまでの人生でも人に優しくされてきたはずですが、それは片倉家の嫡男としての重長に向けられたものだと思っているのでしょう。そして、その名ではなく根津甚八として潜入した九度山では、自分個人に向けられたと感じたんだと思います。

終盤、重長が自分の身分を十勇士に明かして伊達と手を組む勧誘をする場面では、幸村および十勇士が自分の正体を知っていたと知り、口では「それならば話は早い」といいますが、表情は落胆していました。個人として触れ合ってくれていたと思っていた人たちが自分の正体を知っていたというのだから、感じた優しさもまやかしだったのだと悟ったのでしょう。

ただ私は、幸村と十勇士たちは、やっぱり重長個人と付き合ってくれていたと思いました。

兄貴分だった青海入道と伊佐入道は、死に直面しながらも敵である徳川方の重長に「甚八、お前はこっちに来るんじゃない」と声を掛けました。

重長に甚八の名を与えた幸村は、十勇士の死後「仙台に行きましょう」という重長の誘いを、十勇士の主であり太閤秀吉に仕える立場として断りますが、死地へ向かう間際の「さようなら、片倉重長くん」という言葉は、伊達家家臣の重長ではなく重長個人に向けられたものでした。

 そしてまた、真田幸村自身も、死ぬ瞬間には身分や立場から開放されて一人の人間になれたと思います。自分を斬った兄に、嬉しそうに「聞いた?兄さん。仙台だって…みんなも連れていきたかったな」と報告する姿は、ただの弟でした。

 

まとめ

正直に言うと、自分には理解が難しかったなというのが感想です。主人公陣営が第三者なので登場人物を起点としたカタルシスの得られる物語*4ではなく、登場人物たちのやりとりを通じて主題である(多分)価値観の変遷を感じ取る物語だったので、その主題自体に気付くのに時間がかかってしまいました。反省…。

主題が分かった今は、色んな主従や組み合わせで多様な人間関係が描かれていたので、これを念頭に映像を観るのが楽しみです。*5上映会の日程はよー!GW空けときますねるひまさーん!!!

 

 

*1:盛者=豊臣とも考えうるが、秀頼は生まれてこのかた盛者ではないからざまあみろとは思えない

*2:地元の武将なので・・・

*3:元気にガチャガチャしましたけど

*4:重長の変化や政宗の救済はカタルシスではあるけれど…

*5:観ながらここの組み合わせいいなぁとか思ってはいたけど、主題が分からないのがつらくて集中できなかった